探偵小説論 −井上良夫

 ここに私が書き綴ることは、すべて私がこれ迄に読み漁《あさ》って来た探偵小説を通して私自身が感じて来たところを少しばかり纏め上げて、理論めいた形式に組み直したものであって、探偵小説論とは云ったものの、寧ろ探偵小説に対しての私の希望条件の一半を挙げたに過ぎない。つまりこれは、探偵小説の作家に対して、探偵小説の一愛好家が提示した希望である。尤も、私が探偵小説の出来不出来をきめる場合、主として私の此の希望条件をその尺度とするのであるから、その意味ではこれが私の探偵小説論でもある。
 現在の探偵小説は、ハッキリした二つの分野に分れて了っている、智的探偵小説と、煽情探偵小説と。そして、此の二つの流れの作品は、夫々独自の手法を以て組立てられているが、傑《すぐ》れた探偵小説と云わるべき作品は、此の二つの流れの持つ手法を適度に合わせ持っていてほしいと思う。探偵小説の技巧に就いて私の記しているところは、こうした見方から生れていることを御承知願いたい。

一、探偵小説の面白味

 探偵小説の持つ魅力は、屡々これを人間の好奇心や詮索本能に結びつけたり、或は論理の遊戯に起因させたりして説明されるが、要する処、探偵小説の面白味は、「組立てられた謎」への興味に外ならない。従って、探偵小説の有らゆる技巧、法則は、すべて此の一点から生れて来るものであるし、探偵小説の作家は先ず傑れた謎を組立てることに腐心し、探偵小説の愛好家は、傑れた謎に逢着せんことを希って探偵小説を取上げる。だから、探偵小説の根本的理論は勿論、数々の技巧の研究は、すべて此の「謎」の問題を没却して進めらるべき性質のものではない。ヴァン・ダインの探偵小説論が先ず第一に「探偵小説は小説の形式を借りた複雑したパズルである」といい、探偵小説構成上の技巧を、全くクロス・ワード・パズルのそれと同一なりと論じ、文学的な叙述説明は勿論、情緒的な気分の介在は手厳しくこれを排撃したのも、あながち極論ではないわけである。
 探偵小説の魅カは組立てられた謎から生れる、だから探偵小説の愛好家にとって先ず必要なものは「謎」であって、決して「犯罪」そのものではない。古来の探偵小説の謎が必ず犯罪を骨子として組立てられているのは、人間の好奇心と詮索本能を最も鋭敏に刺激するものが他人の秘密や犯罪に外ならないための現象なのであろう。

 探偵小説の根本的興味が「謎」に在る以上、探偵小説の作者の苦心は先ず第一に、如何にして興味ある謎を組立てるか、に在るべきである。つまりこれは、探偵小説プロットの組立ての問題になって来る。

二、組立上の問題

(1)発端

 探偵小説は人間の好奇心を狙ったものであるから、探偵小説の作者はプロットを組立てる上に於て、読者の好奇心を直に[#「直に」に傍点]而も強く[#「強く」に傍点]掴むべきことに工夫しなければならない。これは明白此の上ない理であるにも拘らず、作者は果して此の点の重大さを念頭に入れているのかと怪しまれる探偵小説は驚く程に多い。世界の本格探偵小説中傑作の一つに数えられているA・E・メースンの「矢の家」に於てですら、此の点一〇〇パーセントの効果を挙げていない。後半に於ける無尽の興味に引き較べ、あの作品の前半が案外に読みづらいのは、全く作者が此の重大な点を比較的等閑視していたための結果ではあるまいか。探偵小説の作家が、如何に巧妙な謎を組立てたにしたところで、最初の数頁に於て読者を強く引きつける力を欠いている場合には、その作は既に肝心の第一歩に於て失敗しているのである。此の故に、探偵小説組立上の苦心は、先ず、如何にして読者の好奇心を直に、而も強く捉えるべきか、に注がれなければならないだろう。
 読者の好奇心を捉えるために望ましい手法は、大凡《おおよそ》次の二つに別れる。
 (一)、謎を早く提出すること。
 (ニ)、読者をして、筋の発展の方向を予測させるべく仕向けること。
 (一)の行き方を選ぶ代表的な作家は、ヴァン・ダインやエレリイ・クイーン等、純粋の本格作家である。彼等は事件の前提は出来るだけ省き、開巻直に不可解なる謎を提出する。此の手法の第一要件は、作者の提出した謎が決して平凡であってならないことである。その謎の解決は一見不可能事であるとさえ思われるものを以て最上とする。此の点ガストン・ルルウの「黄色い部屋」は満点で、開巻第一頁真甲から「密室の殺人」の魅力ある謎を投げかける所、読者の好奇心を掴んで離さない。近代では、エレリイ・クイーンの作、わけても「ダッチ・シュウ・ミステリ」は傑れている。ダッチ・メモリアル・ホスピタルで、百万長者の一未亡人に手術を施そうと、博士や助手が万端の用意を整えて、さて隣室から静かに運びこまれた手術台の上の患者を見ると、意外、患者は既に何者かによって殺害されている。物物しく緊張した手術室の雰囲気と、ホンの僅かの間に行われた殺人の謎とは、忽ちにして読者を魅惑の渦中に引さ入れて丁う。「ダッチ・シュウ・ミステリ」は、その謎の提出振りに於て、近来最も出色の作として忘れ難い。その他、ヴァン・ダインの作品は、「べンスン」から「ケンネル」に至るまで、此の点すべて成功している。
 (ニ)の、読者に筋の発展の方向を予測させる、というのは、もっと詳しく説明してみると、作者がハッキリした謎を提出するまでの間に、登場人物相互の関係や、事情の配列などによって、読者をして今後起るであろう事件情況を朧《おぼろ》げながら予測させ、それに対して、不安や期待や好奇心などを起こさせて行くのである。此の場合読者の描く予想は、作者の意図したそれと必ずしも一致させる必要はない。要は筋の発展の上に探偵小説的な期待を持たせることである。此の行き方に傑れている作者は、第一にフレッチャー、ウォーレス等のスリラー作家であり、本格畑の人にはアガサ・クリスチイやドゥーゼなどがある。
 フレッチャーの作中、一例を「マザロフ事件」にとって見ると、マザロフなる人物がその旅の伴侶として一青年を傭い入れて、英国北部の一寒村に到着する。彼は宿の入ロで、二人連れの女に出逢うが、マザロフはその女性に就いて宿の主人にしきりに質問を浴びせ、何かと落着かない風を見せるが、その晩彼は青年に向かって、先刻出くわした二人の女は、実は自分の妻と娘なのだ、といって、彼の過去に就いての奇妙な話をして聞かせる。翌日の晩、彼は一寸外出して来ると云って出て行ったきり、帰って来なくなる。読者は、マザロフなる人物が高い報酬を払って青年を傭い入れるさえ不審であるのに、辺鄙《へんぴ》な村でのマザロフ氏の奇怪な挙動には充分に疑惑の念を高められ、彼と此の村と、更に宿の入口で出くわした女とには、偶然でないつながりがあるものに違いないということが早くも察せられて、多大の好奇心を唆《そそ》られ、やがてマザロフ氏の死体が発見されて事件が本筋にはいる迄、充分な興味と期待とが持ち続けられて行くのである。
 アガサ・クリスチイの「スタイルス事件」では、事件の幕が切って落とされる迄の間に関係人物を悉《ことごと》く登場せしめて行くが、読者は彼等を取巻く漠然たる雰囲気から推して、既に将来の殺人事件を予想し、その場合に於ける濃厚な嫌疑者をも心中ひそかに指摘して来るのである。これは作者の側から云うと、事件の始まる前に於て既に読者をして漠然とながら誤った仮想犯人を作らせ、作者の意図した陥穽《かんせい》へ引き入れて了うのである。此の書き方による発端が、読者に煩雑な感を抱かせることなく、興味深く書かれている場合には、読者に将来の筋の発展を予想せしめる手法中、最も探偵小説的な行き方であると云える。
 L・S・ピーストンの中篇小説「二枚の肖像画」では、或る男が自分の妻の愛を奪った男へ対して奇抜な方法による決闘を申出る。その法というのは、二人が第三者の立会いを得た上で、トランプをひき、少い数のカードを引いた方が或る指定された家へ同じく指定された品物を盗みにはいる、但し彼が窃盗に出かけて後二十分経つと、立会人が警察に電話をかけて、何処そこへいま盗賊がはいっているから、と報せるのである。こうして彼が無事にその家を逃れ出ればよし、若し現場で押えられれば結局その者は社会的に葬られて了うことになるのだ、そういう取りきめをした上で愈々二人がトランプを引く。結局決闘を申込まれた方の青年が低い数のカードを引きあて、その晩直に指定された家へ窃盗にはいりに行かねばならなくなる。ところがその目的の家というのは、ある変人の絵画蒐集家が住っていて、戸蹄りの頗《すこぶ》る厳重な上に、警報器が処々に設けられているという危険極まりない家なのである。かの青年は与えられた合鍵を持って、雨をついて出掛けて行くが、読者は最初に決闘の方法をきかされると、すぐに、今後の面倒な事件の勃発を予想して、筋の発展の上に異常な興味と不安を覚え始めるが、それは愈々青年がかの家へ忍び込んで、ここで意外な事件に出くわすまで、充分に読者へのサスぺンスを持ち続けて行くのである。ピーストン一流の巧妙極まりなき発端である。
 更に、将来の筋の発展を歴然と予想させて、読者に強いサスぺンスを抱かせる点で傑れている作に、アンニイ・ヘインズ女史の「アベイ・コートの殺人」がある。地位ある一夫人が或日のこと、彼女の忌しい過去を知る男にヒョックリと出くわす。その男は今晩何時に是非此処へ来てくれ、と云って、「アベイ・コート何番地」と住所を記した紙片を渡す。彼女はその晩は夫と一緒に或る宴会に招待されていたのであるが、病気と偽って部屋へ引籠り密かに夫のピストルを取出して、家人の日をぬすみ外出する。ところが彼女の夫は、妻の様子に不審を抱き、偶然彼女が置き忘れて行った例の住所をみつけて、益々不審の眉をひそめる。一方夫人は、約束の時刻に例の男のアパートヘ行くが、やがて二人の問に争いが起って電燈が消える。するとその闇の中で彼女は、部屋の中にいま一人別の人物がはいって来ている気配を感じるが、やかて銃声が間近に聞えて、バッタリと人の倒れる音がする。あかりを点けてみると、かの男は何者かに射殺されて死んでおり、部屋の中には最早何者の姿も見えない。彼女は蒼惶《そうこう》としてそこを逃げ出すが、その際慌てて夫のピストルを取り残したままで帰る−、これだけの発端で読者は直ちに、此の女の将来に於ける困難な立場と、夫の行動とに多大の不安と興味とを唆られて来る。開巻数頁にして早くも将来の波瀾を予想させ、今後の筋の発展に絶大の期待をかけさせる所、申し分なき組立て方である。
 (一)の、直ちに謎を提出する場合での必要条件として、その謎の性質が平凡でなく、充分に読者の好奇心を捉えるに足るものでなければならないと同様、(ニ)の場合に於ては、愈々謎が提出せられて、事件が本格的な舞台にはいる迄の問、読者をして筋の発展に充分な期待をかけさせて、よくその好奇心を持続せしめて行かなければならないのである。
 常に(一)の行き方を以て卓越した手腕を見せるエレリイ・クイーンが、彼の第六作「アメリカン・ガン・ミステリ」に於て、クリスチイ式な(ニ)の手法により事件の記述にはいっているが、彼は徒に人物相互の複雑した関係を記すことにのみ意を用いて、肝心の筋の発展を予測せしめることに於て充分成功していない。

(2)発展

 扨、以上二つの行き方によって引き起こされた読者の好奇心は、如何にしてこれを持続せしめて行くか?
 勿論これこれの手法があるなどとハッキリ挙げ得られるべきものでもあるまいが、普通の探偵小説の性質からみて、大体次の二つの行き方に区別することが出来ようかと思う。即ち、
 (一)、筋の発展につれ、作者が提出する事実が暗示に基づき、作中の嫌疑者とは別個に読者に仮想犯人を作らせて行くこと。
 (ニ)、読者が犯人(若しくは嫌疑者)たらしめたくないと思うている人物に次第に不利な事情証拠を集めて来て、その人物を窮地に陥らせることにより、読者の気を揉ませ、或は読者をして、いやでもその人物を疑わざるを得ないように仕向けて行くこと。
 (一)の場合にあっては、真犯人は何者? 果して自分の推定は正しいかどうか、という点で引張られて行き、(ニ)の場合では、その人物の潔白が如何にして証明されて行くか? という点でその興味が繋がれて行くのである。
 此の二つは、読者の好奇心を繋いで行く上でのハッキリした手法であるが、二つのうちのどちらかが上手く書けていない場合には、他に余程のサスぺンスを生むものが設けられてない限り、その探偵小説は退屈な読物になって了うのである。即ちこれは、探偵小説としての出来不出来をきめて来る重要な問題を含んで来るのであるから、以下少しく詳述してみようと思う。
 (一)の点に就いて述べると、探偵小説に現われる嫌疑者は先ず真犯人でないことにきまっているのであるから、作者はそれ以外に読者が真犯人ではあるまいかと思うていの人物を出して行かないと、読者にとっては甚だ物足りないことになる。併し此の場合に最も肝要で且つ困難なことは、作者が此の人物を読者の仮想犯たらしめよう、とする肚を読者に見透かされないように工夫しなければならないことだ。それは、万一作者の意図が読者に見破られた場合には、既にその人物は自然と作中に現われる嫌疑者と同様、読者にとっては興味なき存在と化して了うからである。
 読者の疑惑を或る人物に向けさせるべく色んなヒント、手掛りを、それとなし[#「それとなし」に傍点]に投げて行く、−本格探偵小説の難き理由の一半は実に此処に在るのであろう。
 例をロージャー・スカーレットの「白魔」にとってみる。此の作は「新青年」誌上に訳載され、犯人当ての懸賞を付せられたものであるだけに、此の点の技巧には卓越した巧妙さが窺《うかが》われる。「白魔」はアパートの殺人事件をめぐって、居住者八人の人物の上に嫌疑がかかって行くのであるが、作中一人の盲目の人物がいて、此の男は両眼の視力は失っていながら、眸《ひとみ》はちゃんと普通に見開いているのである。さて、殺人のあった日に、此の盲目の男の部屋に友人が一人訪ねて来ていて、二人は自動ピアノをかけて聴いていた。ところが、ピアノが鳴っている間に、その隣室にいた男が何者かに殺害されるのである。やがて、犯人は此の盲目の男の部屋に一緒にいた人物に違いない、ということになるが、此の男はアパートを訪ねて来た折には確かにその姿を目撃した証人がいるのだが、帰る折には階段の途中まで送って出たという盲人の姿が見られているだけで、彼が盲人と共に部屋の中にいたということ、盲人に送られてアパートを出たということ、此の二つは唯に盲人の証言にのみ拠っているに過ぎないのである。ここで読者は、果してその疑問の人物は盲人の部屋にいたのか、事実彼に送られて部屋を出たのか、更に、その疑問の人物と盲人とは全然別人であったのであろうか−と考え来って、やがては遂に、此の盲人の盲目が果して事実であるのか、故意に盲目を装っているのではあるまいか、と疑って来て、此の盲人を真犯人ではないかと考えて来るのである。作者スカーレットは、読者をして、疑問の人物と盲人とが同一人物ではなかったかと疑わせ、盲人の失明を怪しませるべく、盲人自身の証言を借りて巧みに読者の推理方向を誤らせて行くのである。作者の意図を見取らせることなく読者に仮想犯人を作らせて行く辺の技巧は見事なものである。
 扨、読者に犯人の見当をつけさせて行くのに、読者の疑惑をハッキリと一人物の上に集中させて行くのと、読者が犯人なりと疑い得る人物を多数に出してその判断を迷わせて行くのと、二つの場合がある。
 何れの行き方がより効果があるか、それは一概には云えないが、一人物の上に読者の疑惑を限定させて行くということは決して容易な技ではあるまいし、その上、長篇物にあっては、他の登場人物が不経済になり勝であり、筋を単調にし退屈にする虞《おそ》れがないでもあるまい。
 かと云って、もう一方の、数人の人物を充分疑わしく配置するということもこれ亦決して容易な技ではない筈である。その結果、読者に取っては一向に疑わしいと思われる人物の出て来ない退屈な探偵小説が多いわけである。
 何れの場合にあっても、読者の仮想犯人が最後に至って作者の明かす真犯人と同一人物でない方が読者にとっては興味深いのであろうから、愈々(一)の条件を満足に具備することが困難になって来る。
 一人物に次第に読者の疑惑を集中させて行く点で傑れている作は、前述したスカーレットの「白魔」の外、同じ作者の「ビーコン・ヒルの殺人」、イサベル・ブリリツグス・マイヤースの「再び起るべき殺人」、A・A・ミルの「赤い家」、メースンの「矢の家」、F・W・クロフツの「スターベルの惨劇」同じく「海の秘密」「フレンチ警部の最大事件」等がある。此のうちクロフツの「スターベルの惨劇」は最も成功している。
 数人の人物に順次に濃厚な嫌疑をかけさせ、次第にその疑惑の範囲を縮めさせて行く点で素晴らしい手腕を持っている代表的な作家として、アガサ・クリスチイ女史とアーサー・リースがある。前者の「スタイルスの怪事件」「リンクスの殺人事件」「青列車事件」「ロージャー・アクロイド殺し」、後者の「叫ぶ穴」「ハムステッド事件」等推服に価する。その他、ウイリアム・ストウェルの「マーストン殺害事件」、ヴァン・ダインの「ビショップ・マーダー・ケース」「ケンネル・マーダー・ケース」、ドロシイ・ソーヤースの「五人の無罪者」等も傑れている。
 次いで(ニ)の場合、即ち、読者が犯人若しくは嫌疑者たらしめたくない人物に不利な証拠を重ねて行く、という場合に就いて述べると、前にも記した通り、探偵小説中で公然と嫌疑のかかる人物は大体真犯人でないということを読者は頭からきめているのであるから、すべて此の作中の容疑者に対する読者の興味というものは極めて稀薄なものである。そこで此の(ニ)の行き方が生きて来る。即ち、読者は仮令《たとえ》その人物が真犯人ではないことを信じていても、其の人物に好意を抱いている場合には、その者の上に次第に不利な証拠が集って来ると、どうしても無関心ではおれなくなって、如何にしてその潔白が証明されるかと引張られて行くのである。(従って、(一)の、読者に仮想犯人を作らせて行く場合、此の(ニ)の手法を合わせ持っていれば、更にその効果は倍加して来るわけである。)
 (ニ)の手法が読者の好奇心を繋いで行く上に如何に効果があるかは、ルパンの活躍するルブランの探偵小説が一番よくこれを証明している。主人公のルパンが殺人の嫌疑を受けて、どうにも抜き差しならぬ窮地に陥って行くのであるから、ルパンの崇拝看たるもの、いやでも気を揉まざるを得なくなる。ルパン物の傑れているのは此の一点にもかかっている。
 フレッチャーの「楽園事件」では、ランスフォードなる医師を突然訪ねて来た疑問の人物が、間もなく付近の僧院の塔上から何者かに突き落とされて殺される。ランスフォード医師に解傭を言い渡された代珍のブライス青年は、図らずもその事変の発見される直前に僧院から慌《あわただ》しく出て行くランスフォード医師を見かけて、そのただならぬ気色に不審の念を起こしていたが、医師を窮地に陥れようとして様々な証拠を挙げ始める。読者は、ランスフォード医師の潔白を信じながらも、犯人と思わざるを得ない証拠の数々を見せられ、而も、医師自身が時々不可解な行動をとるので、読者は次第に半信半疑の状態にさせられ、早く真実を知ろうとして先が待ち遠しくなる。
 前の、事件の発端に関して例にとったアンニイ・ヘインズの「アベイ・コートの殺人」をもう一度借りて来ると、蒼惶としてアベイ・コートのアパートから逃れ出ようとしたかの夫人は、運悪くもアパートの出口で、これまた彼女の過去の暗い秘密を知るいま一人の男にバッタリ出くわして了う。彼女はふたことみこと言葉を交して、逃げるようにして別れるが、その男はその儘殺された男の部屋へ向ってはいって行ったらしい。彼女は翌日新聞紙上に「アベイ・コートの殺人」の報道を恐ろしい思いで貪《むさぼ》り読むが、ところが意外にも、かの出口で出くわした男は彼女に就いて一言も語っていないばかりか、その男のことは少しも出ておらず、更に新聞の記事は、彼女が現場に取り残して来た筈の例の夫のピストルのことにも一言も触れていない。奇異な思いをしながらも、安堵の溜息を滴らしかけるが、併し新聞には充分彼女を恐怖させるに足ることが書いてあった。それは、死体を発見したアパートのポーターが、当夜厚いヴェールに顔を隠した一婦人を被害者の部屋へ案内して行った、と云って、彼女自身の服装その他に就いて警察官に話していることと、もう一つは、死体の下から女持ちの扇が(それも披女の持物であった)発見されたと記してあることであった。彼女はいつ何時警察の捜査の手が自分の頭上に伸びて来ないでもないことを知って慄然とする。読者は、彼女のして来た手抜かりを充分に知っている上、彼女が取り落した紙片を見て不審の念を起した彼女の夫が、これまた夫人の跡を追ってアベイ・コートヘ出掛けたに違いないこと、及び、夫人の召使が当夜夫人が夫へは病気と云って寝室へはいったにも拘らず、後刻密かに何処かへ外出したらしいことを知って不審の念を高めていること、等をハッキリ知っているために、夫人の危険極まりない立場にひとかたならず気を挟ませられて来るのである。此の作品は、こうした読者の心理状態を巧みに捉えて行く上に優れた組立て方を示している探偵小説として、範とするに足る作である。
 更に、アーサー・リースの「高原の秘密」では、高原で俄《にわか》のあらしに行き悩まされたマースランド青年が、空家になった一農家をみつけてそこへ避難する。ところがその家へはマースランドより先に一人の年若い女が来ていて、二人は図らずもその家の二階で一人の男の死体を発見する。女は自分の姓名をあかして、実は此の空家で或る男と密会すべく来たのであったが、他殺屍体の発見から、その事実が現われては困るからと、マースランド青年に自分が此の場に来合せていたことはどうか秘密にしておいてくれ、と頼む。マースランドは快く引受けて、殺人屍体の発見を警察に告げる。ところが、警察官が現場の捜査をしていると、例の女が取り落して行ったらしい櫛が発見されてマースランドを驚かす。警察の取調べは遂に現場に女が一人来ていたことをあばき出し、調査が進むにつれて、女は勿論、マースランドの困難な立場が次第に読者の気を揉ませて来る。巧妙な行き方である。
 以上の外、読者の気を揉ませる点で恐らく随一であろうと思うのは、アルフレッド・マーシャルの「鎖の環」で、正直者の働き手として町の評判者であるヴァンサン・ピエロが、楽しい結婚式の進行中、昔犯した殺人罪のため、突然警官の包囲を受けるので、先妻との間に出来たブウブーという可愛い子供一人を連れて、花嫁にも告げずコッソリと逃げ出ようとあせるのであるが、もう後五日でその罪も時効にかかるという条件がある上に、どうしても悪人とは思えない父親と、何事も知らず飢に泣く子供とに読者はいやでも好意を抱き同情を寄せるので、仮令彼の潔白は証明出来ないまでも、どうにかして五日の間は捕われずにおらせたいものと、気を揉むこと甚だしい。
 (一)の方法は真犯人の正体への興味を唆るための行き方であるから、当然純本格物の作家のとる道であるが、(ニ)の方は、よりセンセーショナルな行き方であるから、フレッチャー、ウォーレス等、多くスリラー作家の選ぶところである。併し、「アベイ・コートの殺人」や「高原の秘密」などが示している通り、本格物に此の点のコツを利用することは、作の面白味を増しこそすれ、聊《いささ》かも妨げにはならない筈である。
 クリスチイの「リンクスの殺人事件」、ビーストンの「二枚の肖像画」、イサベル・マイヤースの「再び起るべき殺人」、モーリス・ルブランの「虎の牙」、ヘインズの「アベイ・コートの殺人」等、私の読んだもののうちでは以上の二条件を合わせ持った興味ある作品であった。此のうちビーストンの「二枚の肖像画」は、その事件の発端と、謎が提出されて後の筋の発展とに於て、正に申し分なき組立て方を示しているところの傑れた作である。即ち、発端に於ては(一)読者をして将来の事件の進展に絶大の不安と期待とをかけさせ、間もなく謎が提出せられて後は、(ニ)読者に仮想犯人を作らせて行く傍《かたわら》、(三)読者が犯人たらしめたくないと思う人物に次第に不利な証拠を重ねて行くと同時に、(四)読者が真犯人でないことを知っている人物の立場を次第に困難ならしめて行って読者の気を揉ませるのである。事件の発端と、発展とに就いて、私が先に挙げたところの要件の大部を殆ど完全に取り入れている。此の作はその結末に就いても充分に傑れているから、探偵小説の組立てという点に関心を持っている人々には多分に興味ある作品であろうと思う。
 扨、私は読者の好奇心を繋いで行く上での二つの顕著な手法を挙げたが、此の二つのうちのどちらかを備えることは、探偵小説の本道からみて、他のどれよりも望ましいことであるが、これが読者の興味を繋いで行く上での唯一の行き方でないことは勿論であって、仮令此の二条件を同時に兼ね備えていても、それが必ずしも傑れた探偵小説とは云えないし、反対に、その何れの点も不備でありながら立派な探偵小説であり得ることもある。要は傑れたサスペンスを読者に抱かせればよいのであって、例えばドイルの「バスカービイルの犬」の如きは、何等読者の気を揉ませる態の嫌疑者も出て来ないし、犯人に就いても読者がさして頭を悩まさないうちにホームズがスッカリ名前を明かして了うにも拘らず、深夜広漠たる平原の鬼気を嗾り立てる得体の知れぬ恐ろしい叫び声、不気味なバスカービイル家の伝説と、それにからまる不可思議な殺人事件、その手段と動機等、相侯って、真実を知ろうとする読者の好奇心に深く深く喰い入って離さない、傑れた探偵小説である。或はフリーマン・クロフツの「樽」の場合では、真犯人の見当はついていながら、読者の興味は終始その人物の有罪が如何にして証明されるか、なる一点にのみかかって、一読巻を措《お》く能《あた》わぬ態の魅力を覚えさせられる。

(3)謎の解決

 探偵小説を読んでみて、最も失望を感じさせられることの多いのは、主としてその結末である。探偵小説本来の興味が組立てられた謎に在るのであるから、その謎の解決は探偵小説の読者が最も期待をかけている部分の一つであって、それだけに読者の側の註文は難しいし、作者の側の苦心は大きいわけである。
 探偵小説の結末は如何にあるべきか、これは提出せられた謎の性質により夫々異なるものであろうから、一概にその必要条件は記し難いが、探偵小説に一番普通な「真犯人は誰?」なる謎に対しての結末に就き述べてみると、その条件として、
 (一)、充分読者の意表に出ること。
 (ニ)、解決の理論に就いては聊かの矛盾もないこと。
 (三)、真犯人への手掛りが充分に与えられていること、即ち、
 読者へのフェアプレイを以て結ばれていること。
 以上三つの条件中、仮令どの一つが欠けていても、既にその解決は読者にとっては満足な結末ではあり得ないことになる。例えば、最後に於て作者が提出する犯人が、読者の眼前には一度も現われなかった人物であったとする。此の場合、その解決は充分読者の意表に出で、解決の理論に就いても恐らく矛盾はないであろうが、真犯人への手掛りが全然与えられていない点に於て落第である。ルブランの「虎の牙」の結末はこれであるし、フレッチャーの「楽園事件」が亦これに近い。これ等の作品は二つながら、その謎の提出振りの巧みさとサスペンスの強さとに於て、珍しいばかりに見事な筋の発展を見せていながら、最後の結末に至って、惜しくも大きな破綻を来たしている。
 最後に於て真犯人である人物が、読者の眼前に一度も姿を現わさなかった人物であることは第一に排撃しなければならないが、仮令それが屡々読者の眼前に現われた人物であっても、真相への手掛りが少しも与えられていない場合には、前者と全然同じ意味に於て落第である。
 前記三つの条件を備えた解決は、これを云いかえれば、最後に於て作者の真犯人を知った時、読者に「聊かの不満も起さしめない」ことである。
 併し近来では(特にヴァン・ダインの出現以来)、探偵小説のフェアプレイが組立上の一つの必要条件とまでなっているので、読者に全然未知の真犯人を持って来るなどいうアンフェアな結末の探偵小説は殆ど姿を消したといってもよい程である。
 探偵小説の謎の解決に就いて例を引いて詳述することは、それ等の作を読んでいない人々への妨げになることであるから避けるが、要する所、或る程度まで読者の意表に出て、而も論理に矛盾がなく、且つフェアプレイを以て結ばれておればそれでよいのである。
 以上は、探偵小説の謎の解決に就いての条件である。更に、広い意味での探偵小説の結末に関して付加して置きたいことは、作者が最後までの謎の数々を堆積させて行く結果、その結末に於て謎への解決を与えるための説明が十数頁に亙り長々と述べられる例の多いことである。中心的な謎に付随して生ずる多くの謎は、出来る限り最後に至るまでの間に於てその解決を与えて行くことにつとめ、最後に残される謎は出来るだけその数を少くしなければならない。最も適切な箇所に於て謎の解決を示すのが作者の手腕であって、此の点でフレッチャーは傑れているし、ドゥーゼ、ルブランも上手い。
 最後に至るまですべての謎の解決を残しておくのは、ドイルやフリーマン等の古い短篇作家が残して行った手法をその儘に踏襲しているのであって、探偵小説のフェアプレイの点からだけでなく、読者の受ける感じから云って、決してよい行き方ではない。「バスカービイルの犬」の如き、読者が最も興味をかけている謎の説明がついて後、尚取り残された問題の数々の説明が長々と続き、「グリーン・マーダー・ケース」に於ては、意外なる真犯人が知れて後、色々なトリックの種明かしや、動機や事情の説明が細々しく記されて行く。これ等はすべて問題の解決を残し過ぎるのであって、全くつけたりの感のみ深く、読者が受けた感銘、昂奮を打ち毀すこと甚だしいのである。事件の真相の大部を夫々大切な箇所に於て明かすことの効果が如何に大きいかは、フレッチャーの作の大部、ドゥーゼの「夜の冒険」、ルブランの「813」、スカーレットの「白魔」、マイヤースの「再び起るべき殺人」等の示例するところである。

三、いま一つの技巧

 以上で、探偵小説の発端と、発展と、結末とに就いて述べた。以上に挙げられた諸条件が満足に備えられて行けば、先ず本格的な探偵小説としての整った骨組みが出来上るわけである。敢えて私は骨組みという。それは、傑れた探偵小説であるためには、更にその上の粉飾が施されなければならないからだ。
 屡々繰返したように、探偵小説の持つ面白味は根本に於て謎謎の持つそれと一致する。従って、傑れた謎を持つことは傑れた探偵小説たるの第一条件で、私が述べ来ったところの技巧は、すべて此の謎の興味を増すための技巧に外ならない。併し、探偵小説が小説の形式を借りた謎々ではあっても、単に謎々の域を脱し得ぬもの、終始謎々の興味以外に出得ぬもの、これも亦傑れた探偵小説ではあり得ないのである。即ち此の見解から、私は有名なバロネス・オルチイの「隅の老人物語」を、単に謎々の興味以外に出ぬ退屈な探偵小説であると見ている。あの物語は、探偵小説の鼻祖アラン・ポオが、今日の知的探偵小説の源を作った「マリー・ローゼの秘密」に於て示した手法を、忠実に踏襲しているところの、代表的な探偵小説であるが、あまりに「小説の形式を借りた謎々」であり過ぎて、探偵小説に望ましい他の要素を殆ど欠いている。タグラス・トムスン氏は、探偵小説における顕著な情緒上の要素として、昂奮《エクサイトメン》、当惑《ビウイルダーメント》、意外《サープライズ》の三つを挙げている。如何にもこれは探偵小説としては何よりも望ましいエレメントであるのに、「隅の老人物語」には、単に謎々が持つところの「当惑」のそれ以外には、「昂奮」がなく、従って「意外《サープライズ》」に乏しい。シャーロック・ホームズ物語の成功は、それが此の三つの要素が一〇〇パーセントにまで持っているためで、全く典型的な探偵小説である。その点では、ポオの三つの代表的な探偵小説、中でも傑れている「モルグ街の殺人」も、遠く及ばないであろう。
 併し、ホームズ物が探偵小説として傑れている所以の大半は、その巧みに織込まれた昂奮、当惑、意外、の三つの要素が渾然と融け合って、そこに探偵小説的とも云うべき快い気分が全篇に醸《かも》し出されている点である。私は、探偵小鋭の持つ魅力の大半は、その探偵小説が持つ謎々のものの面白さにあるというよりも、寧ろその作品が持つ緊張と昂奮と、一種の不安との漲《みなぎ》る探偵小説独特の雰囲気に在るのだと云った方がより適切であろうかと思う。少くとも、私達が探偵小説を読んで、その作品の魅力なりとして私達の頭に残るものは、こうした探偵小説的な雰囲気の魅力に外ならないであろう。  セクストン・ブレーク物語中の一篇に、ある大雪の降り積った晩、二ヵ所で別々に人が頭部を劇しく殴打されて殺される。現場を調べてみると、不思議にも、綺麗に降り積った雪の上には、加害者の足跡とみるべきものが一つも無い。−これは探偵小説として充分に魅力ある面白い謎である。併し、ブレーク物語は、例の通り、提出せられた謎をブレーク探偵が立ち所にして解決し、その説明をして聞かせる、という殆ど筋書的な探偵小説であるために、興味が薄く、読後全く感銘が残らない。
 ヴァン・ダインの作品で、「甲虫殺人事件」は、その着想組立てに於て、彼の他の作のどれよりも劣っているが、にも拘らず、私はあの作が全篇に醸し出している探偵小説的な雰囲気に於て、少くとも、余りに謎々的で味わいのない「ベンスン殺害事件」よりも好もしい要素を持った探偵小説であると思っている。
 此の故に私は、謎々の持つ面白さに於てより傑れているエレリイ・クイーンの作よりも、ヴァン・ダインの作品をより高く買うものであるし、同じ意味で、プロット構成上のうまさに於て傑出しているスカーレットの「白魔」よりも、マイヤースの「再び起るべき殺人」を採り、オースチン・フリーマンのソーンダイク博士の物語よりも、トーマス・ハンショウのクリーク探偵物語の方を遥かの上位に置く。更に、探偵小説と縁の遠い荒唐無稽を好んで取扱うサックス・ローマーも、「フウ・マンチウ博士」物語の作者としてでなく、彼の傑れた短篇集「夢見る探偵」の作者として多大の敬意を表している。

四、結び

 要する所、探偵小説根本の面白味は謎の持つそれであるし、探偵小説の技巧は、だから、如何にして興味ある謎を組立てるか、の所産でなければならない。併し、真に傑れた探偵小説は、更にその上を、ミステリイの薄いヴェールで蔽われてほしいものだ。

初出誌「ぷろふいる」1934年4月号/底本「幻影城」1977年7月号No.32


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